ご存知でしょうか?
山に興味を持つ人であれば、
一度はその名前を聞いたことがあるのでは?
文太郎は、
積雪期開拓時代の昭和初期、
パーティを組まず、
単独行によって数々の登攀・縦走記録を打ち立てた不世出の登山家で、
新田次郎の小説「孤高の人」のモデルとして実存した人物です。
そして、
今でこそポピュラーになった全縦(六甲全山縦走)ですが、
文太郎がその先駆者なんです。
文太郎は、
当時、
和田岬に住んでおり、
トレーニングとして、
早朝に和田岬を出発し塩屋まで歩いて行き、
そこから宝塚まで六甲全山を縦走し、
下山後は、
その日のうちに和田岬まで歩いて戻って来たそうです。
距離にすれば100Km以上、
その半分は山の中。
信じられない行動と持久力、
普通の人は和田岬から塩屋までも歩けませんよ。
そして、
次の日には職場に行き、
何事もなかったように仕事に精を出したとか。
ありえない、
絶対、ありえない。
前ぶりが長くなりましたが、
ひょんな事から、
この加藤文太郎の名を冠いした、
「文太郎道」と言う登山道があることを知ったんです。
そして、
調べると、
なんと、
我が家の直ぐ近くではありませんか。
これは行かねば、
と言う事で、
早速行ってみました。
やって来たのは、
高倉台のつつじ橋。
全縦のコースです。
正面に見えるのが、
栂尾山。
「文太郎道」は、
この栂尾山に登る道なんです。
この橋を渡ると、
階段があります。
全縦はここを左に行き、
地獄の四百階段を登ります。
でも、
今日は、
ここを右に行きます。
こんな道?です。
若干不安になりましたが、
少し行くと、
テープがありました。
雑木林の中を踏み跡に沿って奥に進みます。
倒木の下を抜けると、
ロープ場となります。
かなりの急登ですが、
ロープを使う程ではありません。
しばらく登ると、
尾根筋に出ました。
この尾根を登って行くと、
正面の木に、
何か、、、
やはり、
ここが、
文太郎道のようです。
文太郎ですが、
「孤高の人」によると、
「単独行の加藤」とか呼ばれ山岳界から讃えられたり、
批判されたりしてますが、
文太郎としては、
『別に好きで一人でやってるわけじゃないし、、、』
だったみたいです。
山歩きの能力が突出していて、
『君は山岳会にとどまるべき器ではない』
などと期待されるがゆえに会にも所属できず、
さらにそのことに異を唱える弁舌ももたぬ口下手。
しかし、
文太郎はそんなことにくじけず、
『おっしゃぁ〜、
そんなら一人で登ったろ〜やんけ〜』
と装備を考案し、
日々鍛錬したそうです。
その一例が、
六甲山系の縦走であり、
甘納豆30粒だけでで、どこまで体力が持つか試し、
仕事の行き帰りには、10Kgの石を詰めたザックを担ぎ、
夜は庭で眠て、山中泊の訓練をし、、、
等々。
尾根をガシガシ登って行きます。
この尾根、
かなりの急登で、
手を使うような場所もありますが、
道は明瞭で、
間違うような箇所はありません。
岩場もありますが、
ステップもあり、
危険な場所はありません。
文太郎もこの岩を登ったのでしょうかね?
その文太郎ですが、
孤独に耐えつつ、
常日頃の鍛錬のおかげで、
数々の偉業を達成します。
その一つが、
富山から長野への北アルプスの厳冬期の単独縦走。
これは、
世間から見れば、
『なんちゅうことすんねん、あいつは』
と大ビックリだったらしいのですが、
本人にして見れば、
『普通』
岩場より手強いのが、
落葉。
これが、
結構滑ります。
特に下りは要注意です。
それと、
花崗岩が風化してできた砂、
これも手強いです。
数々の偉業を達成する文太郎ですが、
友人の変容、
上司の嫌がらせ、
同僚のねたみ(仕事もできたようで)、
憧れていた女性の堕落、、、
なんてことが重なれば、
当然なります、
人間不信に。
でも、大丈夫。
人間不信に陥った文太郎ですが、
幼馴染の花子さんとめでたく結婚したことにより 、
心がほぐされていくのです。
美しい妻、
幸せな結婚生活、
一女も授かります。
円満な家庭を持ち、
山から遠ざかります。
なんせ、
山中泊の訓練で庭で寝た時、
『結構暖かいやん』
と感じだことが、
妻と同じ布団で寝ることで、
『こっちの方が全然暖かいやん』
って、
気づいたんです。
そりゃ〜、
遠ざかりますわな。
が、
しかし、
そんな文太郎を世間がほっときません。
この文太郎道、
ほとんどが登りですが、
一箇所だけ下りがあります。
飛び降りれるような高さですが(笑)
ここを、
下り、
急登を登り返すと、
こんな道に合流しました。
この左右に走ってる道は、
水野道で、
右に行くと須磨離宮公園に下ります。
と言うことは、
左を見ると、
栂尾山の山頂です。
幸せに暮らしていた文太郎ですが、
文太郎を崇拝する後輩が、
文太郎がたどった同じコース、
同じ雪山を次々にクリアーします。
そして、
『自分と一緒に山に登って下さい』
と頼みます。
文太郎は、
その頼みを何度も断るのですが、
最後には、
『一回だけやで』
今まで単独での山行きだった文太郎ですが、
生まれて初めて組んだパーティで、
30歳と10カ月の生涯を終えるのでした。
場所は、
槍ヶ岳の北鎌尾根。
文太郎が、
結婚もせず、
尖ったまま単独行をしてたら、
後輩の望みは無視し、
彼の望みであったヒマラヤ、
それも南西壁冬季無酸素単独だってやってたかもしれません。
でも、
幸せな家庭を持つことで丸くなり、
後輩の望みを聞いたことで、
若くしてこの世と別れることになりました。
あくまで、
結果ですが、、、
栂尾山頂(274m)
四百階段より全然楽だし、
楽しい「文太郎道」でした。
これからは、
こちらをメインルートにしよう。
ここには、
展望台があり、
明石海峡や淡路島、
条件が良ければ遠く四国が望めます。
六甲山の中でも、
お気に入りの場所の一つです。
そして、
左に目を向けると、
文太郎が働いていた和田岬の会社が見えます。
文太郎は明治38年3月11日、
兵庫県美方浜坂町(現在の新温泉町)で生を受け、
中学卒業後この会社の研修生として就職しています。
そして、
会社近くの県工(現在の兵庫県立工業高校)夜間部を卒業し、
若くして技師になっています。
現在でもそうですが、
いかに高校卒業の資格があるとはいえ、
中卒の職工(技能職)が技師(設計職)になるとは、
彼は、
山屋だけの人ではなかったようです。
文太郎が務めたこの会社、
今は社名は変わってますが、、、
実は私、
この会社に約30年勤めていたんです。
ソース:カモシカクラブ - 加藤文太郎のこと |
『先輩!』
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